2009年8月22日(土)

ueber Doresden nach Leipzig

Berlin Hauptbahnhof
 早起きして、荷物整理も早く済んだので、列車を予定より一本早める。ホテルからBenzのタクシーに乗車、地下道をとおって7〜8分、ハウプトゥ・バーンホフに着く。朝8時、旅行客の姿の方が多い。駅周辺には更地が多く、まだまだ開発途上である。もっとも整備が終わっても、通勤客で混雑することはあるまい。
 マクドナルドで朝マック。
 きょうは地下ホーム1番線から、08:35発ウィーン南駅行EuroCity 173Vindobona号でDresdenへ向かう。
 <写真右>はホームに掲出されている列車編成表。黄色が1等車を示す。Bゾーンに停まるというので、行ってみれば、そこは人ひと、ひと。東欧への列車は混雑するとは聞いていたけれど、よりによって団体客だ。それも「列車の旅」ツアー。40人はいる。ひょっとすると座席にありつけないかも知れない、どうしよう。


Vindobona 号
 08:32の予定時刻に少し遅れて、Vindobonaがやって来た。Hamburg Altona を06:14に発車して、294qを走破してきた。


 1等では座れないと判断して、隣の2等車に乗り込む。D氏のとっさの判断だ。こちらも決して空いてはいなかったが、一室だけ無人だったので入り込む。1等区分室は4人席だが、2等は6人席。二人の荷物を入れただけでも狭いのに、もう4人が荷物を持ち込んだら、どうなる。頭上の荷物棚に収まるはずがない。
 席にあぶれたのであろう乗客が、一瞥しながら通り過ぎて行く。隣は1等車だから、みな引き返してくる。誰かしら入ってきそうなものだが、誰も入ろうとはしない。東洋人は避けられているのだろうか。
 車内風景を撮影してきたD氏が、室外の貼り紙「障害者用席」を見つけた。わたしたちはどんな障害を持っていると見られたのだろう。また1等車は大混乱だという。でも車掌は積極的には介入せず、黙ってみているだけだったそうな。
 車内改札が来たら、席を空けるよう言われるかも知れないと心配したが、杞憂に終わった。


 区分室内のスウィッチ類。右の赤いのは非常停止装置か? <写真右>は主要停車駅の案内。ICEは電光掲示だが、旧式車両のVindobona号ではこうなっている。


 どんよりした空、平坦な地形。山はない。


 線路際に黄色の花を付けた草が生えている。日本でいう「ブタクサ」に似ている。同種のものだろうか。


 <写真右>Dresden Neustadt(ドレスデン新町)に停車。結構な乗降があり、日本の女子学生のグループも廊下を通った。


 <写真左>Dresden 到着寸前、乗務終了前最後の車内放送をする車掌の後ろ姿。車掌室はなく、通路でマイクを握っていた。駅、車内ともに放送は必ず Meine Damen und Herren! ではじまる。
 列車にはできるだけ長く乗っていたい立場としては、ゆっくりと列車から降りたいところだが、きょうは機関車の付け替え作業を撮影するために、真っ先に降りることとする。早めに通路に出たが、すでに車掌グループがいた。車掌が真っ先に降りた。停車時間は20分もあるのになぁ。
 <写真右>ここから乗務するCzech乗務員と打ち合わせするDB車掌。


 DBの機関車が切り離された。どこからともなくファンが集まってくる。ファンを撮影するわたし。


 チェコの機関車がやってきた。連結作業をするのはひとり。ホームで旗を振る係はいない。


 編成を整えたVindobona号。<写真右>は編成後部。


 運転台に乗り込むのは機関士ではない。彼はずっと機関士と話していて、動き出す前に降りた。機関士は制服ではなく、Gパンだった。接客はしないので、制服はないそうな。


 拳銃を保持した国境警備員が乗り込み、いよいよ発車だ。車掌が見入る書類はなんだろう。
 ベルリンから乗った団体は消えていた。Neustadt(新町)で降車したのだろう。大型バスに乗り換えるにはハウプトゥ・バーンホフよりも便利なのかも知れない。
 <写真右>1等車はDBとチェコの一両ずつ。


 <写真左>チェコの食堂車                    <写真右>オーストリアの2等車


 後部には、オーストリアの車両。イヤ〜、国際列車だ。胸が躍る。昔はこんなのばかりだったと聞く。もっと早く来ればよかった。そして、もっと先まで乗って行きたかったなぁ。列車を最後まで見送るD氏。
 Vindobona号はこのあと、プラハを13:30に立って、終着ウィーン南には18:02の予定だ。まだ600qも走る。900qを12時間だ。


 ハウプトゥ・バーンホフの玄関はホームから見える。Polizei がいるぞ。土曜日だからサッカー試合があり、サポーターを警戒しているのだろう。


ドレスデン サッカー情報
 ここで、ドレスデンのサッカークラブに関する情報。クラブ名はDynamo Dresden。社会主義諸国では秘密警察が支配するクラブには Dynamo という名前が付くという。東ドイツ時代は強豪で、国内1部リーグを何度も制覇してきた。しかし西に併合された際、主力選手を引き抜かれ、戦力が低下し、いまはブンデス・リーガ第3部に所属。
 この日は、チェコ国境の町AueにあるFC Erzgebirge Aue とホームで14:00キック・オフ。3−0で撃破している。

再建なった聖母教会
 
ドレスデン訪問の目的は、わたしは1945年大空襲の痕跡を見ること、D氏は再建なった聖母教会を見ることであった。
 聖母教会はルター派の教会として1743年に完成した。ドレスデンの街はイギリスによる空襲で破壊された。1945年2月13-14日だ。空襲とその翌日の火災で、教会は15日に倒壊した。東ドイツの時代には、瓦礫そのものが祈念碑として残されていた。ドイツ統一後、民間主導で再建が進められ、1994年に工事に着手、2005年に完成した。瓦礫の中で、使えるものはそのまま使ったという。最も難しいジグソー・パズルだったとか。足りない部分はもちろん新調。瓦礫をそのまま使った部分と新調した部分とでは色が異なる。費用は1億3200万ユーロ、そのうちの1億ユーロを寄付で賄ったという。
 <左>市販の絵はがき。瓦礫時代と再建後の教会が対比されている。<右>わたしの撮影。


 教会前にあるルターの像。


 土曜日の昼時。教会ではミサが行われており、内部を見学することはできなかった。だが、8ユーロ払って、塔へ登る。その途中で教会内部を見下ろすことができた。


 塔の最上部に立つD氏。後方および<右>はドレスデン・ノイシュタット。流れるはエルベ川。


 朝食は朝マックだけ。塔に登り、運動もしたのでお腹が空いてきた。シュタインベルガーホテルの前のテラスレストランで、昼食とする。魚はD氏、豚肉料理はわたし。
 ドイツの流儀にしたがって、ゆっくりと食べ、話し、支払う。トイレに番人はおらず。


歩きながらのケータイ
 長男の件がどうなったか、その後の経過が気になったので、メールを打つ。状況は好転していた。職場の上司が事情を理解し、善処すると約束してくれたそうな。そのため、辞職は思いとどまることにしたという。メールの直後には電話がかかってきた。長男からだ。軽率なことをしたとしおらしく反省していた。通話は歩きながらした。日本ではそういう人をみて軽蔑していたのだが、それをやってしまった。しかし、その後通話することはなかった。

壁画 君主の行列                       ゼンバーオペラ(ザクセン州立歌劇場)


シュロス広場の乗り物


ツヴィンガー宮殿正面と中庭


クラシックの路上ライブ
 いろいろなところでやっている。それがどれも本格派。この写真は宮殿中庭でのもの。


ブリュールのテラス
 エルベ川の遊覧船は蒸気機関車とそっくりの汽笛を鳴らす。ヒルトンのテラスでお茶。


トラム
 
歩いても帰れるけれど、そこはやっぱりトラムでしょう。


 ハウプトゥ・バーンホフに戻ってきた。


再びドレスデン・ハウプトゥ・バーンホフ
 出発列車時刻表。わたしたちの乗るICE1552は、下から二段目に表示されている。


 まだ時間があるので、構内散策。<写真左>気動車。<写真中>ICEの台車。<写真右>製造会社名、ボンバルディア、ジーメンスの名前も見える。


ICE1552
 今朝降り立った3番線の隣の線路・2番線からの発車。写真は最後部車両。窓ガラスも壁面も決してきれいではない。


 ゆっくり先頭車まで歩く。1等に乗車。車端にあるトランク置き場。街中では置き引きが横行しているようだが、列車内ではないのだろうか。


 先頭車の展望席。前方が見渡せる。停車するとガラスが曇って見えなくなるが、走り出すと曇りが消える。
 ドイツでは、運転席後方からの撮影は、どういう訳か禁止されているようだ。ビデオ撮影をしていた人は、2度も注意されていた。No,Sir!(だんな、ダメですぜ)と言うんだね。結局、ドレスデン新町までの4q、8分間を収めてしまったようだ。



Leipzig
 ドレスデンから120q、1時間13分をかけて到着。ハウプトゥ・バーンホフに頭から突っ込んだ。そして係が現れ、なんと窓ガラスを拭きだしたぁ。でも窓ガラスだけ。
 列車はこのあと向きを変えて走り、ワイマール、アイゼナッハ、フルダ、ハナウなどをとおり、22:54まで走り続けてフランクフルトに至る。


 <写真左>今夜の宿、ザ・ウェスティン・ライプツィヒ。左の構築物は動物園の宣伝塔。ハウプトゥ・バーンホフの玄関を出て、右に折れ、トラムの線路を渡り、廃業したホテルを回り込むと見える。白い外壁はよく目立つ。
 前庭には桜の木があり、大和という名のレストランを持つ。どんな店か、入ってみたかった。だが、昨晩鮨を食べていたし、今夜は、当地にしかない店に行くのであきらめる。
 <写真右>ハウプトゥ・バーンホフ。若者たちは誰にアピールしているのだろう。


 ホテルに荷物を置き、市街へ。まずは、1989年東ドイツ崩壊のきっかけとなった民主化要求デモをリードした人々が集ったニコライ教会へ。もう締まっており、内部を見ることはできなかった。20:00近くでもまだ明るい。
 外壁のアピールには「2009−20 平和革命 祈り、講演、討論  心に刻め、感謝せよ、疑問を持て」とある。



アウアーバッハス・ケラー
 今夜の目的地。ゲーテ『ファウスト』にも登場するワイン酒場、1525年の創業。<写真左>メードラーパッサージュというショッピング・アーケードの入り口。<写真右>店の看板。


 店は地下にあるが、階段の側に立つファウストとメフィストフェレスの像と台座。




 珍しいことに、係が席に案内してくれた。注文もよいタイミングで聞きに来たし、料理の説明もしてくれた。
森鴎外を描いた絵が店内のどこかにあったらしい。


 黒ビールを飲む。料理はうまいと思うが、量が多いので、最後は飽きてくる。結局残してしまった。それに、旅の疲れも出てきたのだろう。二人とも、黙って食べた。


 ホテルに帰って、とにかく寝る。(09.10.15記)

 ホテルについては、こちら

■ 後日、アウアーバッハス・ケラーを訪れた E.TAMURA の提供





 絵画の下には、ドイツ語と英語とで次のように記されている。

    <森鴎外 アウアーバッハス・ケラー訪問時の回想〜明治18年12月27日〜>
                   フォルカ・ポーレンツ 2009

 明治18年といえば、1885年。明治憲法よりも先に内閣制度ができた年だ。 (09.11.03 追記)